アイカツ教は原始に還る
あなたは神を信じますか?
そうですか。
というわけで、最近こんなツイートをいたしました。
アイカツって声優、歌のお姉さん、アニメやDCDの脚本家やライターによってキャラが作られてる三位一体説なので、構造としてはほとんどキリスト教なんですよ。
— ティニー(アイカツ宗教家) (@antiny__) 2018年3月5日
今回はこのツイートをもう少し掘り下げることとします。
そもそも宗教ってなんだ?
しゅう きょう -けう [1] 【宗教】
そもそもオタクコンテンツが多かれ少なかれ宗教要素を持っている
オタクコンテンツと一口に言っても様々ありますが、原典(原作)があり、外典(二次創作やメディアミックス)があり、依り代(声優)など、神が憑いたものを信じ、お布施(お布施)をします。宗教じゃん?ファンがヤバいコンテンツあるじゃん?あれなんか立派なカルトだよ。
そして、最近のオタクコンテンツの中でもトレンドで、群雄割拠の世界となっているのが、いわゆる二次元アイドルコンテンツとなります。
そしてそれらの多くが、声優がCVだけでなく他のメディア露出やライブ等を行うものとなっており、以下がそれに対する私のツイートです。
他の声優=歌手のコンテンツだと、キャラと演者との同一視のみが起こります。それは生き神であり、そこにあるのはネパールのクマリのような、少女としての神秘性であり、それはいつ喪われるかという危うさを秘めてしまうんですね
— ティニー(アイカツ宗教家) (@antiny__) 2018年3月5日
声優がキャラの声も、歌も、時にはコスプレもというように、全てを表現する行為は神(キャラクター)と巫女(声優)との同一視が起こりやすく、それはあたかも
石など自然そのものを神と崇めるアニミズムと呼ばれる原始宗教とほぼ同じなのです。ここではこれからこのようなコンテンツについて、原始宗教的コンテンツと呼びます。
原始宗教的コンテンツに起こりうることとしては、神と巫女を同一視しすぎ、巫女に対しての異常な執着や、巫女の神性を弱める行為への糾弾がなされたりします。また、アニメ、ゲームなどのコンテンツの展開終了と共に全てが終わってしまう、と錯覚させてしまうことも大きな問題にあたります。コンテンツの死により巫女だけが残り、神は死んだとなってしまう。信者はまた別の宗教を探し始め、終わったコンテンツそのものが歴史の中に、昔あった宗教の一つとして埋もれてしまうのです。
そんな中で、宗教的に考えると、それら原始宗教的コンテンツより、一歩時代の先を行くコンテンツがあったのです。それが、「アイカツ!」シリーズです。
三位一体説って知ってるか?
他のアイドルアニメとアイカツシリーズの差異として、
声優さんが歌を歌わず、本職のアイドルさんが歌唱担当として歌をうたう、というのが特徴の一つにあります。
それにより、未成年や現役の学生が多かったアイカツ声優陣の学業などの負担にならないというものでしたが、
これが思わぬ副次的効果も生んでいくのです。
キリスト教の、三位一体の盾理論(以下図)というものがあります。
私たちの目の前にいる神父さんは神、神の子であるキリストは神、奇跡を与えてくれる神霊は神、でも神父はキリストじゃないし、キリストは神霊じゃないし、神霊は神父じゃないよ、三つ揃って神なんだよ、ってことです。
これをアイカツ的に言ったのがちょっぴり伸びたこのツイートなんですね。
諸星すみれさんは星宮いちごであり、霧島若歌さんは星宮いちごであり、アニメやDCDやフォトカツの星宮いちごさんは星宮いちごである。諸星すみれさんは霧島若歌さんではなく、霧島若歌さんはアニメではなく、アニメの星宮いちごさんは諸星すみれさんではない。これが三位一体説です。
— ティニー(アイカツ宗教家) (@antiny__) 2018年3月5日
つまり、アイカツのオタクは原始宗教より一歩進んだ、宗教の矛盾を解決していることになります。
更に一神教が抱える全能性の矛盾、つまり神は全ての属性を持つ、ということ。
これってつまり神は美少女でイケメンで姉で妹で巨乳で貧乳でホモみたいなことになるわけですが、これってちょっと度し難いじゃないですか。
そこら辺もアイカツという宗教は解決しておりまして、
単純にアイドルが星宮いちごだけでなく、たくさんいる、つまり多神教化していることで解決しているわけです。
つまりアイカツは宗教界の最先端、トレンドが私に追いつくんです。
さらにアイカツは矛盾を超えてくる
私たち日本人、信心深いようで意外と適当で、正月に神社に行って、お盆にお寺に行って、クリスマスにはチキンを食べます。
あれ~私なに信じてんだっけ~あはは~みたいな感じですけど、そんなことを1000年とか前に平安時代や鎌倉の人が同じようにおかしいと感じて、本地垂迹説というのを生み出しました。
ほんじすいじゃくせつ【本地垂迹説】
実は、アイカツ教にも、本地垂迹説と同質の概念が存在します。それが、歌唱担当の方によるキャラの兼任です。
アイカツにおける同一歌唱担当については、私は本地垂迹説の立場を取っておるのですね。例えば本地(本体)である霧矢あおいが、救済する星宮いちごの能力に合わせたライバル形態をとってこの世に出現してきたのが音城セイラであるのです。
— ティニー(アイカツ宗教家) (@antiny__) 2017年11月24日
いちセイはいちあおだし、セイきいは蘭あおなんですよ。
というわけで、三位一体的コンテンツにはそんな強みもあるんですけど、更に三位一体的コンテンツはオタク業界の裾野を広げ、未来へつなげるという効果も期待できるんです。
この画像、皆さんも一度は見たことあると思います。三位一体的コンテンツについては、演者=神ではなく、それらを取り巻く主題歌陣や、アニメスタッフなど、様々な方々が神の一翼を担ってると解釈できます。アイカツで培われた「実質アイカツ」、「うんうんそれもまたアイカツだね」の精神、もしアイカツシリーズというコンテンツの展開が終了しても、声優さんが共通している、歌手が共通している、スタッフが共通している、というように、何かしらを通じたアイカツの精神が生きているコンテンツにハマることができ、彼らがアイカツ自体のことも忘れることはないでしょう。
しかし、アイカツ新シリーズでは、他のアイドルアニメと同様、演者が歌唱も担当する、いわば原始還りが起こります。アイカツおじさんが危惧しているのはその点なのです。
それにより、アイカツ教とでも呼ぶべきこのコンテンツがどのような形になっていくかはまだ未知数でありますが、是非とも皆さまには神はどこにでも宿っているということを忘れず生きて欲しい、と宗教家として願います。
アニメコンテンツが原始還りしていく中、これからの三位一体説を担うコンテンツとして、私は企業型Vチューバーが同様にその役割を期待されるのではないかと思っているのですが、その話はまた今度にしましょう。
2018.03.06 ~ボヘミアンスカイを摂取しながら~